映画『提督の戦艦』の感想(レビュー)・コルチャークの生涯について

この記事では,映画『提督の戦艦』(Admiral/ Адмиралъ)を観た上での個人的な感想と内容,主人公であるコルチャークの生涯についてなどを書いています.
この映画はロシアで製作されたもので,第一次世界大戦とロシア革命という激動の時代を生きたコルチャーク提督の実話を基に描かれた愛と感動の物語です.
総製作費20億円,構想5年,撮影期間241日,スタッフ総勢1500人というとんでもないスパンと規模で製作されており,これはロシア映画史上でも最大の製作規模だそうです.圧倒的スケールで描かれた海洋戦争アクションが魅力な本作について,個人的な感想を簡単に文章にしてみました.またコルチャーク提督の生涯についても調べて見たのでそれについても触れています.
文字数は4,000字以上あります.誤字脱字を発見された方は連絡していただければ助かります.

entry-20_01.jpg 
※画像はアマゾンより.



 まず邦題の「提督の戦艦」についてだが,授業後しばらくして自分でこの映画を見返した時に,邦題の「戦艦」の部分は余計であると感じた.戦艦というよりもコルチャーク提督の生涯についての内容といえる映画だからだ.「提督の戦艦」だとまるで「戦艦」が主役といわんばかりである.
 映画の中心人物はコルチャーク提督.「提督の戦艦」においてコルチャーク提督はロシアの愛国者として描かれており,祖国の運命を一身に引き受ける覚悟でいたが,ある状況からロシアの人民に銃口を向けざるを得なくなる.コルチャーク提督の悲劇的運命にはロシア自身の悲劇が反映されていた.以下,コルチャークの生涯について調べた内容を記す.
 コルチャークは優秀な成績で海軍学校を卒業すると,エドゥアルド・トッリ男爵の北極探検隊に参加して功績を挙げた.この時期コルチャークは日本,中国,朝鮮などのアジア諸国を回り,東洋の哲学に心酔して中国語まで学び始めている.また独学で海洋学に没頭し,学術本まで発行した.1904年3月,コルチャークは教養のある貴族の娘,ソフィヤ・オミロヴァと結婚した.ところが結婚式の数日後にはコルチャークは日露戦争(露日戦争)へと送られてしまい,これによって二人は引き裂かれてしまう.日露戦争でのコルチャークの英雄的な働きは敵の日本人でさえあっぱれと褒めたほど目覚ましいものであった.旅順港(アルトゥール港)を明け渡した後もコルチャークは自分の率いる砲兵中隊とともに砲撃を止めず,負傷してようやく捕虜にとられた.いくつか残されている歴史の証言によれば,コルチャークの勇敢さに深く感銘を受けた日本人はそれに対する敬いの念を示そうと,武士の行列を2列組み,コルチャークを籠にのせて運んだそうだ.さらに日本帝国軍司令部は捕虜であるコルチャークからは武器を取り上げず,戦争終結を待つことなくして彼を自由の身にした.1915年,コルチャークの人生に転換期が訪れる.この年に彼はアンナ・チミリョーヴァ(以下,アンナ)と出会った.ちなみにアンナは友人の人妻だった.二人の心は一瞬のうちに固く結ばれあった.その絆はあまりに強く,二人はどうしても交際を打ち切ることができなかった.
そして頻繁な手紙のやり取りが始まった.
 二人が知り合ったとき,コルチャークは41歳,アンナは22歳だった.これまでにコルチャークは世界の大洋の4つを制覇し,20の海を渡り,世界一周旅行を成し遂げ,2冊の本を著していた.コルチャークにはロシアだけでなく外国からも多くの勲章が授与されている.こんなコルチャークとアンナの関係は,国民的英雄とナイーブな若い女性の間の恋という印象を与えるかもしれないが,実際はアンナという女性はコルチャークに劣らずはっきりとした個性を持った人物だった.アンナはコルチャークよりも強かったと語る人も多い.「大丈夫、まだ私たちは戦える。」,これがアンナの口癖だった.コルチャークを励まさねばならないとき,アンナはかならずこの言葉を手紙にしたためた.こうした心からの励ましのおかげでコルチャークは躍進的な昇進を遂げていく.第1次世界大戦の最中の1916年,コルチャークに黒海艦隊の司令官の辞令がおりる.コルチャークにはロシア全国から賛辞が浴びせられる.中央の新聞はコルチャークについての記事を書きたて,彼の写真が紙面に踊った.
 1917年2月,旧弊した世界は瓦解した.黒海艦隊の状況をコントロールできなかったコルチャークは,6月には首都ペテルブルグへと召還される.コルチャークはボリシェビキを受け入れることはできなかった.ボリシェビキがドイツと停戦交渉を行っていることを知ったコルチャークは,これをロシアに対する裏切りと捉え,これ見よがしに辞職する.辞職の前にコルチャークは水兵らにむかって怒りに燃えた弁舌を行い,日露戦争の終戦に際して「勇敢さ」を讃えて叙勲された金の勲章を海に投げ捨てた.コルチャークはボリシェビキに反対する運動に加わらないかと誘われると,即座にこれに同意した.
 コルチャークは軍事経験を交換するために国外へと送られた.後日,コルチャーク提督自身が回想録のなかでこのミッションを振り返り,殆ど傭兵に近いものだったと告白している.本質的にコルチャークは外国の軍人及び政治家らの支援を取り付けたことで,この瞬間から祖国の裏切り者になってしまった.こうした者たちは白衛軍を助けようとはせず,弱体化したロシアに侵略する計画のほうが大事だった.コルチャークは英米に渡った後,ロシアへは日本を経由して戻り,十月革命を知った.そしてロシアの軍人の高官では彼以外誰もしなかったことをした.コルチャークは英国のエージェントとして自分を採用するよう頼んだのだ.この後コルチャークはハルビンへと送られる.ハルビンでは反ボリシェビキ勢力が形成されつつあった.
 この時期,コルチャークとアンナの間のロマンスはますますドラマチックな展開を見せる.二人はほんの束の間の逢瀬を重ねながらも,始終文通を続けていた.今までと同じく生活は別々に,それぞれが自分の家庭で暮らしていた.この状態は1918年の夏まで続く.アンナは夫と共にウラジオストクに出かけ,その旅の途中でコルチャークがハルビンにいることを偶然知った.この時アンナはコルチャークと会おうと出かけた.その後すぐにアンナは夫と正式に離婚した.このような話は当時全くありえないことであった.真珠の首飾りを売り払い,アンナは海を渡って日本へ行く.日本にはその時コルチャークがいた.




 後日回想録のなかでアンナが明かしたところによると,コルチャークは駅で彼女と会い,帝国ホテルへと連れ込んだ.翌朝コルチャークは自分と一緒にロシア正教会へ行くよう頼む.教会は人気が無く,二人は並んで立ち尽くし,日本語で語られる正教の祈祷を聞いていた.これが結婚式の代わりだったそうだ.
そしてこの瞬間から二人は一緒だった.愛する女性と一緒となり,コルチャークはシベリアへと戻る.1918年11月,オムスクで軍事クーデターが起こる.その結果コルチャークはロシアの「臨時最高指導者」となった.おびただしい数の兵士を抱える軍を組織し,コルチャークはシベリア全土とウラルを掌握し,ヴォルガ川まで迫る勢いを見せた.ところが1919年半ばからコルチャークを次々と不運が襲う.赤軍はひとつの町,また次の町と制圧してゆき,コルチャークの軍をどんどん東に追い詰めていった.
 このときからコルチャーク体制には危機が始まる.シベリアの農民はコルチャーク軍に従軍し食糧を供出することを望まなかった.そこでコルチャークらはこれを武力で解決し始めた.目撃者の証言では白衛軍の兵士は常に銃殺を振りかざしながら従軍者を集めていたという.そしてこれに従わなかった者らは,処刑の前に自らの手で自分の墓を掘らされた.状況はコルチャーク体制の核の中に社会主義革命のために蜂起した民衆への復讐心に燃える人間が揃ったことでさらに深刻化した.コルチャークの腹心らは反体制を疑われる人物は全員銃殺し,つるし上げ,牢屋にぶち込んだ.ウラル地方だけでもコルチャーク体制の粛清にあい殺された人間はおよそ2万5千人に及んでいる.こうした行為はコルチャーク戦線を崩壊へと招いた.動員兵は群をなして部隊を離れていった.コルチャークとの協力を,以前は彼を信奉していた多くのインテリらが拒むようになった.ところがこうした事件を目にしていた数人の証言によると,コルチャーク自身は惨い命令を出したことは一度もなかったという.彼はもともと穏やかな性格だった.北極探検に参加したときも力尽きた犬を殺すことは許さなかったといわれているほどだ.このようにしてコルチャークは人間としては君主制を破壊したテロを容認しなかったが,専制君主としてはテロ行動を阻止せざるを得なかった.それは無慈悲な軍事的専制をおいてボリシェビキ政権を打倒できる手段はないと確信していたからだ.白衛軍が全滅した後コルチャークは捕らえられ捕虜となる.人民の目にはコルチャークはコルチャーク派を具現化する存在に映っていた.これが提督のその後の運命を決めた.コルチャークの銃殺は1920年2月7日と決められた.目撃者の回想ではその日は恐ろしい寒さで,シベリアでさえこれだけ厳しい凍ては珍しかったという.伝えられているところでは銃殺の行なわれた川辺で提督はロマンスを歌ったという.それは「燃えよ、燃えよ、私の星よ」という歌だった.
 コルチャークは輝かしい司令官であり,才能豊かな北極探検家であり,ロシアの栄光のために多くを成し遂げた人物だった.ところが別の見方をすると,彼は「シベリアの血塗られた処刑者」という異名を得るほどの軍事専制者だった.




 モスクワ大学史学科で20世紀のロシア史を教えるアレクサンドル・オスタペンコ助教授(以下,オスタペンコ助教授)の話を引用する.オスタペンコ助教授は,ソ連時代,あらゆる歴史資料にはコルチャーク像の一面だけが表されていたとして次のように語っている.「ソ連の歴史学の表した内戦時代とその後では、コルチャークの像はもちろんネガティブなもので、ソ連政権の主たる敵のひとりとされていた。とはいえソ連軍人のなかには、主としてこれは海軍将校らだが、コルチャークの勇敢さ、大胆さに、そして北極調査の貢献に深い敬意を表すものたちもいた。ソ連時代のコルチャーク像は往々にして極端に無慈悲な専制者として描かれていた。とはいえ、これはある部分は実際と一致しているといわねばならない。コルチャークは銃殺の命令を出していたし、そうした銃殺は大量殺戮だったからだ。ただ指摘しておかねばならないが、この事の一部は実際と一致する。コルチャークは銃殺の命令をだしていた。そして銃殺は大量殺害だったということだ。」ペレストロイカが始まるとロシアの歴史上の人物への評価も変わり始めた.コルチャークも例外ではなかった.オスタペンコ助教授はこれについてさらに次のように語っている.「ここ数年、コルチャークに光を当てた研究が多くなされるようになってきた。コルチャークへの評価は変わり、より秤にかけた、肯定的なものに変わりつつある。私自身は、コルチャークを研究者としても、人間としても勇敢な人物として捉えている。私の評価はもちろんのこと敬意に満ちたものだが、これはあらゆる場面、時代に注意を向けた上でのことで、これには銃殺も含まれる。コルチャークは他の人間にたいして遠慮することはなかった。ただし、当時、ボリシェビキも同じように遠慮はしなかったことは指摘しておかねばならない。」
 今のロシアでは価値の再評価が行われつつあり,自分たちの歴史も客観的に捉え,単に白か黒かに色分けせぬようになってきているそうである.
関連記事

コメント

非公開コメント

yuruyuruhimajin -ゆるゆるひまじん-

2017年12月1日(金)
ゆるゆるひまじんブログがスタート!
まだまだ訪問者は少ないですが頑張って更新していきます!!

スマートフォンで見る

下のQRコードからスマートフォン版にアクセス!
QR

ブログ内検索

お知らせ(公式Twitter)

応援お願いします!

ブロとも申請フォーム

お問い合わせフォーム

このブログの記事についてのお問い合わせはこちらからお願いします.

名前:
メール:
件名:
本文:

返信はyuruyuruhimajin●yahoo.co.jp(●→@) からします.諸事情により返信できない場合もありますのでご了承ください.

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

訪問者数